2008年06月08日

岡田斗司夫 オタクはすでに死んでいる


オタクはすでに死んでいる

新潮新書
著者: 岡田斗司夫
出版社: 新潮社
サイズ: 新書
ページ数: 190p
発行年月: 2008年04月
ISBN:9784106102585
本体価格 680円 (税込 714 円) 送料別
オタクはすでに死んでいる

賛否両論あるオタク論だ。
タイトルはかなり挑戦的だと言える。

ただ、もともと伊藤剛氏の「テヅカ・イズ・デッド」という本があり(もちろんそのタイトルはニーチェの「神は死んだ」のもじりだったが)、それのパロディのようなタイトルで「オタク・イズ・デッド」という講演を岡田氏はしている。その内容は同人誌(月刊岡田斗司夫)に掲載されている(ただし入手はたぶん困難かも)。
その内容を敷衍して、より深い考察がなされているのがこの本だ。

さて私は岡田氏のある講演を聴いている。そのとき彼が言っていたのは「この本で、自分はオタクに共通する社会は死んだ、とフレームを提示し、その後、オタクはその中でどう生きるべきか、ということを述べている。この本に反論するなら、前半を批判して「オタク共同社会はまだまだ生きている」というべきだ。ただそれを言うためには、「自分が新たなオタキングになる」と宣言すべきだろう。しかしそんなことを言いそうな人は黙っている。 東浩紀氏(もう一人言っていたが忘れた)あたりがいいのでは、と思うが、彼は賢いから黙っている。  なお、後半を批判するためには、オタクが死んだということは受け入れるのが前提だ、ということだ。」
というようなことだった。

さて、私は自分ではオタクではないと思っている。ではこの本を批判してはいけないのだろうか? そんなことはないだろう。

暴走族のトップが「俺はやめる。族も解散だ〜」と言ったとき、他のメンバーが「俺がリーダーをするから続けるぜ!」ということがない限り、族は解散するだろう。

だが、オタク社会はオタキングの一声で解散するようなものだろうか?そこがまず最初の疑問だろう。

オタクが死んだ、というのは実は「オタクという共同社会幻想は死んだ」ということだ。
岡田氏によれば、昔はオタクどうし、ジャンルが違っても一体感があった。 ところが今はない。メカミリ派は萌え系に対して理解を表さないし自分を同類だと思わない。 昔、宅八郎が出てきたとき、「面白いやつがでてきた」とオタク仲間は楽しく見ていたし、彼を排除することはなかった。  そのころにはオタク共同社会幻想が存在していた、というわけだ。
この場合オタク、というのは子供っぽい、普通の大人が興味の対象とはあまりしないもの(たとえば怪獣)に熱中する人、ということになるだろう。 
当時はそのような人たちは差別を受けていた。 だからこそ団結が必要であったし、オタキングと称する人が、オタク擁護論をぶっていたわけだ。オタクというのは頭がいい、とか高尚な趣味だ、ということになっていく。

岡田氏の書きぶりでは、そのころオタキングと言ってもだれも反発しないので、オタキングとしてオタク全体の地位向上に努めた、というニュアンスがあるようだ。

そしていま、自ら王と称していた者が退任する。だが、ただ退任するのではなく、「王国はすでに死んでいる」という言葉を残して。

だがここで読者として考えるべきなのは、「王国」はもともとあったのだろうか、ということだ。
オタク共同社会が本当に存在していたのか。 セクト間の抗争はあったにせよ、最終的に「君はオタク、僕もオタク。だから仲良く団結しよう」という雰囲気はM君事件以前からあったと思われる。

だがその後M君事件を経て、オタク趣味は実はいけないことではないのか、というパーセプションが生まれてくる。 
そのころのオタキングの立場は難しいだろう。

だが。M君事件があったからこそ、オタキングは必死にオタク擁護の講演をし、本を書いた。
それ自体は日本の文化に貢献していると言っていえないこともない。
(以下未完です)


オタクはすでに死んでいる

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ラベル:岡田斗司夫
posted by 濫読ひで at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 作家あ行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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